家康の幼少期から長い縁を育んでいた11代目の住職は、立派な殿様になった家康に呼ばれ、城への長い道を駕籠に揺られ、謁見する際に疲れからこっくりこっくりと眠ってしまいました。あろうことか、殿様である家康と面談のその時に…。「無礼である!」といきり立つ勇猛な家臣達に、家康が発した言葉があります。「和尚我を見ること愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚、眠るべし」家康を愛しい童のように愛し、家康もまた和尚を愛した。心温まる逸話。その日から、このお寺は、「可睡(眠ってもいい)斎(寺)」Can sleep templeと呼ばれるようになったのです。ここでは、家康と11代目の可睡斎の和尚さんとのエピソード、「このお寺がどうして可睡斎と呼ばれるようになったのか?」をご紹介しています。
11代目の住職、仙麟等膳和尚様が小僧時代の頃に遡ります。時を同じくして、徳川家康公(当時の名は松平竹千代)は、静岡市の賤機山(しずはたやま)の麓にある臨済寺というお寺で今川家の人質として過ごしていました。仙麟等膳和尚様が竹千代の教育を何度か受け持ったことからご縁ができ、故郷に帰りたい一心の竹千代を船に乗せ、愛知県の篠島に逃がすことに協力しました。そののち、徳川家康公は、岡崎城に入り、1570年に浜松城主となられました。人質時代のご恩を忘れる事のなかった家康公は、仙麟等膳和尚様を城に招き、再会を喜びました。ところが、当時を懐かしむお話しの最中にも関わらず、仙麟等膳和尚様はこっくりこっくりと居眠りを始めてしまいました。
和尚様を叱る事なくにっこり微笑んで「和尚、我を見ること愛児の如し。故に安心して睡る。我その親密の情を喜ぶ。和尚睡る可し 睡る可し(ねむるべし)」と申されたと言われています。この様子を見聞きしていた御側付きの侍達が、仙麟等膳和尚様のことを「可睡和尚」(殿の前で眠ることを許された和尚)と呼ぶようになり、いつしかお寺の名前までが「可睡」と呼ばれるようになったと伝わっています。家康公お墨付きの眠りのお寺。この故事にちなんで、可睡斎には快適な眠りを守ってくれるお守りがおかれています。昔々の可睡斎の和尚さんのようにゆっくり今夜も眠れるように。可睡斎の眠りのお守りを探してみてください。